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投稿者:yuyanさん
私の人生・・・語るには息子達は欠かせない存在です。
2002年11月10日息子は産まれました。 それが私にとって初めての出産でした。


「・・・」
「産まれましたよ〜」
「・・・」
息子は産声をあげませんでした。
「なんやろう・・・」
と思いましたがすぐにとってもとっても小さな今にも消えそうな声で、
「ふぇ〜ん」と泣く声が聞こえ安堵しました。

綺麗にしてもらった息子を看護師さんが私のところに連れてきてくれたのも束の間、
すぐに何処かへ連れて行ってしまいました。
別の看護師さんから、
「赤ちゃん、産声が小さい事と呼吸が過呼吸だったからしばらく保育器で様子みるからね」
と説明されました。

産後2時間は分娩台で安静にするのですが、
一人で居た為抱っこが出来なかった事や何があったんやろ・・・
といろんな事を考え、出産の疲れを感じる事など出来ませんでした。
それから2日間、当時私にとっては長く苦しい時間でした。

その間、病室では私より後に出産された方がベッドサイドで授乳やおむつ交換をし、
一番辛いのが抱っこを見る事でした。
(なんで私だけ・・・)
その度、新生児室のガラス越しに保育器の中で丸裸で
いくつか管をつけられた息子を眺めていました。

3日目の朝、
「今日、調子が良ければ同室になりますよ」
と看護師さんが言ってくれました。

やっと抱っこが出来る!
やっと息子の温もりを感じられるんやと胸が熱くなりました。

息子はお昼すぎ、服を着せてもらい新生児室からでてきました。
長い長い2日間。
でもこの2日間は、私に与えられた試練というのでしょうか、運命の予兆にすぎなかったのです。

1か月・2か月と時は過ぎ、私も少しづつ子育てにも慣れてきた頃、
相変わらず泣き声は小さいものの良く寝る子やな〜なんて思いながら
少しだけ引っかかる気持ちを持っていました。
根拠はなかったもののなぜこんなに物音に反応しないんやろうと。

ある日、眠っていた息子の近くで持っていた掃除機をドアにぶつけてしまい、物凄い音がしました。
でも息子はビクッともしないどころかすやすや寝ている・・・
おかしい!
疑問は確信に変わりました。

この時息子は2か月。
相談するところがわからずひたすら息子の横で音を鳴らし反応をみる毎日。
しかし相手は赤ちゃん。
反応したように見える時もあり、ホッとしまた反応がなくて不安になる日々を2か月過ごしました。

4か月検診の日、保健師さんに相談してみました。
しかし6か月まで様子をみては?という返答。
なんだかモヤモヤしたまま家に帰りました。
何かしたいでも聞こえていなかったら・・・
そんな気持ちの葛藤が病院に行く私の足を止め
結局6か月まで反応をみる毎日を過ごしました。

やはりなにも変わらなかった。
私は、とにかくいろいろな耳鼻科へ電話をかけました。
しかし検査が出来る機材がないと言われ続けました。
そんな時知り合いが耳鼻科を紹介してくれ、行ってみることに。
そこでは、検査が出来なかったものの検査の出来る病院に紹介状を書いて下さいました。
早速検査をしてもらいました。

結果は、
「聞こえていないようです」

あとは何を話されていたのかわかりません。
でも、その時とても不思議な感覚になったのです。
これで私の苦しかった4か月が終わった。
これからは疑って過ごさなくていいんやと胸のつっかえがとれたようでした。

ただ1つ、もっと早くここに連れて来てあげていたら、もっと早くからこの子に合った子育てが出来ていたのに、
という思いだけは今も後悔の気持ちです。

そうして息子と私のリハビリ生活が始まりました。
1か月程通ったころでしょうか、リハビリ担当の先生が
「一度ろう学校へ行ってみてはどうか」
と、おっしゃり連絡先を教えてくださいました。

それからすぐ、
聾学校早期教育部(幼稚部に入学するまでの0歳〜3歳の子どもが通う部屋)○○先生へ電話をかけ、
訪問日を決め電話を切りました。

初めての場所は苦手で一人で入っていけるか心配でしたが
先生は私達が到着する頃を見計らい門で待っていてくれました。
そして、
「遠いところよく来てくださいましたね」
と声をかけて下さいました。

私はその優しい言葉にホッとしました。

お話をしながら保育ルーム「ひよこ組」に行き、先生は息子との日々の生活をゆっくり聞いて下さり
いろいろなアドバイスを下さいました。
この時間が何より今は自分達には必要と感じ、聾学校へ通う事を決めました。

最初は息子の為というよりは自分の為に通っていたように思います。
他のママと話したい・先生にこんな事を聞いて欲しいそんな気持ちでいっぱいでした。
2人で学校に行きパワーをもらい、また一週間頑張れる、
その途中に挫けてまたパワーをもらう・・・
そんな日々が一年・一年半と過ぎた頃、私は二男を出産しました。

二男には長男が出来なかった、新生児スクリーニングという生後入院中に出来る脳波の検査をしました。
結果は2度とも、 「リファー」
詳しい検査が必要。
「リファー」・・・懐かしい言葉でした。

しかしこの時の私は、長男の時とは違いとてもとてもショックで一瞬パニックになりました。

なんで・・・なんで・・・なんで・・・

この言葉が頭の中をグルグルまわっていました。
耐え切れず私は病室で二人の息子に対し心の中で、
「ごめんね・・・ 今日一日だけ・・・今日一日だけやから・・・」
と何度も何度も言いながら一人泣きました・・・。

聞こえない状態で産んだ事に対して謝りたかったのではなく、
泣いている事・ショックだと思ってしまったこと・
何よりまだ私は長男を受け入れられていなかったと思い知らされた事が涙になり溢れて止まりませんでした。

次の日、決めたのです。
もう立ち止まるような事では泣かないと。

何でこうなったんやろうと泣いても先は見えない。
それなら、この子達が「ママ!」と言ってくれた時、
手話を使って会話が出来るようになった時、
この先いろんな感動の場面で泣こうと決めました。

それからまた1年半前と同じ日々が始まりました。
そして二男も聾学校へ通うことに。
といってもお腹にいたときから通っていたので、2か月にはひよこの一員、
1歳にしてママ部屋(幼稚部保護者の待機部屋の事)の一員でした。

二人を連れて通う私はいつしかどんどん古株になっていき、上級生のママからは
「まだひよこやったっけ?」
「もうええやろ!」
「そんな息子小さかったっけ?」 等
顔を会わせる度に言われる程学校にも馴染んでいました。

子ども達が1年・2年と成長していくに連れ新たな悩みが出てきます。
これからもきっとず〜っと悩みながら一緒に成長していくんだろうなぁ〜と不安半分、期待半分です。

いつか伝えたい言葉があります。
「聞こえないあなた達で生まれてくれたからママはたくさんの人と出会うことができ、
たくさんの事を経験することが出来たよ。
ママはあなた達がママのところに生まれてきてくれたことに感謝しています。
ママを選んでくれてありがとう。」と。

寄せられた感想から


tyanrin 何でこうなったんやろうと泣いても先は見えない。
この言葉胸にささりました。
どんなことでも言える事ですね。
前を向いて進んでるyuyanさん、
くじけそうになった時、
私、この言葉を思いださなきゃと思いました。
ありがとう☆
トシボウ yuyanさん、私には想像もつかない程いろんな経験をされて今、「ママのところに生まれてきてくれたことに感謝しています」とお子たちに伝えたい思いでがんばってらっしゃる姿を感じ、これから私もいろんな事にがんばっていきたいと思いました。
先程のコメントでは、いまひとつお伝えしきれてなかったかと思い、再コメントさせていただきました。
勇気をいただき、ありがとうございます!
5年3組 yuyanさんは、普通では経験できないことをたくさんしてこられたんでしょうね。
力強く生きておられる姿が目に浮かびます。
トシボウ こんにちは。読ませていただきましたよ〜。
コメントさせていただく前に、それぞれに人生があるんだな〜と痛感いたしました。
いろいろご苦労がおありだろうと思いますが、でもそのおかげでいろんな経験が出来て本当に良かったですね。
正にこれこそ神様からのプレゼント!
私も私の人生がんばります!thanks
pair-moon 初めての出産で不安だったでしょう。
yuyanさんは優しくてすごくいいお母さんです。


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