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投稿者:littlebear さん
古川先生の「孤独を考える」の講演を聴いて、自分の「孤独」のルーツを考え始めた。
これは、胸がチクチク痛みを伴うパンドラの箱を開けてしまった。 自分が前を向くために。

「孤独」は今も今までの私の人生のテーマだ。
私は幼少の頃から孤独を本能で感じていたのかもしれない。
♪幸せを数えたら、片手でさえ余る。不幸せ、数えたら両手でも足りない♪ (かなり、古い?)

私の幼い頃、幸せに思うこと、楽しかったこと嬉しかったこともたくさんあったと思う。
でも、その思い出はなぜか私の中で思い出せない。
思い出そうとするけど、思い出せない。
思い出せない理由は自分でもわからない。
だから、角度を変えて振り返ってみようと思う。

小さいときから、私は、どうやって両親に甘えたらいいのか、その術を知らなかった。
きっと、両親も、どうやって私に愛情を注いだらいいのかわからなかったんだと思う。
苦労してやっと軌道に乗りかけた当時の住居兼店舗(飲食店)には従業員と母の妹、それに叔父が同居していた。
叔父は身体が弱く我が家で静養し、治った後も我が家から定時制の高校に通っていた。
そんなことで、精一杯だったのかもしれない。

私の第一次反抗期の頃、弟は母のお腹にいて、大きなお腹を抱えて毎日、働いていた。
弟が生まれた後、従業員たちは、それぞれ独立して行った。
もちろん、私が病気になったりしたときは、両親はいっぱい関わってくれた。
元気なときは、叔母・叔父・店の従業員の人たち、お客さんの関わりも多かった。

だけど第一次反抗期の時の私…。
思い出したくない過去なのか記憶は定かではないのだが、 叔母や叔父に
「ここは、私の家! ! だから出て行け!  田舎に帰れ! 」 と暴言を吐いていた。

今振り返ると、
(もっと両親に関わって欲しい、両親の視線を私に向けたい、なのに同居人達はそれを阻んでいる!)
と思っていたんだと思う。

でも、両親の前では、誉めて欲しくっていい子にしていた私。
当然、親には、暴言や言うことを聞かない私の話は耳に入り、爆弾が落ちていた。
「あんたは堀川の橋の下で拾った子や」っていわれ、子どもながらに傷ついていた。

それでも、怒られる事は弟に向けられている愛情を自分に向ける手段だと本能で知っていたのかもしれない。
一通り反抗期がおさまり、幼稚園に休み休み通っても、うまく同年代の友達の輪に入るのは苦手だった。
小学校に入学しても、外に友達と遊びに行くのもほとんどなく、お店でお客さんと話しているのが好きだった。
用のないときは、2階で弟と二人で過ごしていた。

傍から見れば、おもちゃをたくさん与えてもらい、行きたくなかったお稽古事もさせてもらい、
愛情一杯かけてもらってると見えたと思う。
でも、私は、何も満たされてなかった。

小さいながらも、必死に朝から晩遅くまで働いている両親の事情もわかっていたと思うが、 本当に寂しかった…。
私は家でも学校でもいつも何かに「我慢」をしていたと思う。
何に、どんな「我慢」をしていたかは、全く記憶がない。
まるで記憶喪失になったように。

でも、自分が「我慢」することで、バランスをとって生きていた。(今も同じだが)
そして、いつの頃からかはわからないけど、人の自分への感情を敏感に感じ取れるようになってしまった。
それが、また、自分でもビックリよく当たるのが悲しい。

私は、両親とゆっくり話した経験が少ない。
家族はいつもばらばら。夕食もお店で食べた。
お客さんがまだいて、一緒に食事・・・なんてのもしょっちゅうだった。
食べたら、食器を流しに置き、自分の部屋へ。
そしていつもの孤独が始まる毎日の繰り返し。

小学校時代も、思春期の中・高校生の時にも、
どんなに辛く悲しいことがあっても両親にそのことを話すことをしなかった。
しなかった・・・ではなく、どう何を話していいのかわからなかった。
私は手のかからない子だったと思う。
真逆に、弟はうまくタイミングを見つけては両親と話していた。

私の子ども時代は、まだまだ長男が大事にされ、女の私は大事にされているように思えず寂しかった。
今から思うと、わたしは両親にとって初めての子。
両親はどう育てていいのかわからなかったのかも知れない。
抱きしめるだけでいいんだって事も、店が忙しく考える余裕もなかったんだと思う。

私の記憶の奥底に残っているもの・・・。
それは、病気の時だけはいっぱい関わってもらえるということ。
病気の時は弟ではなく、両親は私だけを見てくれた。

小学校高学年になる頃(そう、叔父・叔母も独立し4人家族になった頃)から、
主人公が白血病だとか骨肉腫であるとか波乱万丈なテレビドラマを好んで見ていた。
主人公に自分を投影し、疑似体験をして両親に甘えることをしていたように思う。
勉強は、私は出来ない子で弟はよく出来た。
だから、弟はいつも誉められ、私は叱られていた。
私は甘えるのが下手くそだったが、弟は甘え上手だった。

私が、両親に口ごたえをすると、
「屁理屈ばっかり!」と言われ、弟が同じ事を口ごたえしても何も言われなかった。
それが、私には嫌で仕方なかった。

そんな中で自分を持たず、ただ流されるのが楽だったのかもしれない。
田舎の祖父母達が来てくれたときは、私の居場所が存在した。
祖父母は私をかわいがってくれ頼ってくれた。

小学校高学年くらいからは、京都に来た父方・母方の祖父母が私を京都の神社などに連れて行ってくれた。
でも、祖父母が田舎に帰ったら、また、私は、孤独を感じていた。
弟とよく兄弟げんかをした。
兄弟喧嘩の中で一度、弟を押さえつけたとき、弟の呼吸が一瞬止まった。
そのときの恐怖は今も思い出すだけで身震いがする。
呼吸が戻ったとき、本当にほっとした。
兄弟喧嘩しても、たいてい、悪いのは姉の私。

小学校に入学してから、長期休暇(夏休み等)の午前11:30〜12:30すぎまでは、お店の手伝いが入ってきた。
遊びに行っていても、中学校までは、その時間に帰れなければ、帰れコールが友達の家に入り・・・イヤイヤ帰っていた。
そんな環境だったので、友達づきあいも、けんかの仕方も、約束の断り方もわからないまま時が過ぎた。

弟がまだ小さいとき、夏休みはいつも、8月になると両親のどちらかの田舎に行っていた。
私が5歳くらいになると、二条駅まで父がついて来て、そこから兵庫県の田舎に独りで電車に乗って行った。
駅に着くと、到着時間を知らされていた親戚の誰かがホームで待っていてくれ、お盆で帰省する両親を待ったものだ。

弟が小学校に入ってからは、弟と2人で田舎に汽車で行った。
そんな風に夏休みも友達と遊ぶこともなく孤独に過ごしていたが、私にはそれが当たり前のことだった。

そんな中、4年生の時に私に対するいじめが始まった。

クラスの女子が2つのグループに分かれ、双方がよく思ってない状況で、
私がグループの属し方がわからなかったことがきっかけだった。
で、両方の約束も守れず・・・いじめが始まった。

クラスみんなが、私を無視した。
時には 「バイキン!」 など言われたい放題。
学校では毎日泣いていた。

そのことを、忙しい両親に話せないし、話す時間もない。
話したとしても 「あんたが悪いんや!」 って言われることが分かってたので、家では何事もないように元気に振舞っていた。

なので両親は私がいじめられていたことを知らない。

いじめがおさまりかけた頃、私は自分の髪の毛を暇があれば無意識に抜くようになっていた。
抜いてまとまった髪を叔母に見せ、「こうしてくくったらいいんかな」って見せて話した記憶がある。
両親も周りの大人も神経性脱毛症と思い込んだ。
当然、理由を聞かれたが、「何にもない」と言い張って言い通した。

その後、中学校卒業までは、いじめがある時、ない時とかなり波のある日々を過ごした。
それでも、家にいるときは元気に振舞っていた。
忙しい両親と話すのは晩御飯のときだけ。
それも食べたら、店の掃除があるので必然的に2階に上がらされるという毎日。

6年生くらいの時、どうも両親は大きなケンかをしたのか、
母に「もし、お父さんとお母さんが離婚したらどっちにつく?」と聞かれたことがある。
そのときの私の答えは、「山科のお姉ちゃん(母のすぐ下の妹)のところ」 だった。
両親の離婚なんて考えたこともなかったし、どっちも選べないから、そう答えた。

私が、中学校2年生のとき、6年生だった弟が学校でいじめられていることが発覚。
通知表の通信欄に、「授業中おちょけてる」と記載があり、不信に思った親が弟を問い詰め分かったのだ。
弟は、全て両親に話した。
プロレスごっこと称して暴力を振るわれ、傷を作って帰ってくる日々、
両親は学校によく足を運び、先生に相談していた。

身体的な目に見える傷と先生の気づきで、両親は動き、結局、弟は私立中学に入学した。
弟は甘え上手。
素直に嫌なものはいやと話せる子だった。
両親にしたら、素直でわかりやすい子で扱いやすかったのだろう。
ましてや、二人目で男の子。
昔の人ですから、弟への思い入れは、私よりもはるかに強かった。

私も、中学校受験は進められ、塾にも通わせてもらっていたが、嫌で公立に行った。
同じきょうだいでも、話をする・しないで両親の対応は違った。
そして、女の子と男の子の差も大きかった。

私は、自分を押し殺し、人に合わすことで、自分の存在を主張し、自分のポジションをキープしていた。
物心ついた時から、そんな環境で人に合わすという生きるすべを学習していた。
振り返りながら、今の半分も人生を書いてないのに、我ながら濃い人生だと思う。

私の濃い人生は 「死」 ということの影響も大きかったように思う。
中学校2年生時、小学校から一緒だった男の子が、白血病になり、入院。
亡くなる数ヶ月前、副作用で体力も落ち、ムーンフェイスでマスク。
それでも学校に病院から登校してきた。

机から落ちた鉛筆を自分で拾えないくらい体力も落ちていたのに。
そこまでして、登校したかった想いを私は知る由もなかった。

その年ももう終わろうとしていた12月の末、その男の子は他界した。
同じクラスだったので、お通夜も告別式にも参列した。
クラスの学級委員として、クラスを代表して彼の棺に花をたむけた。

その状況の中、頭の中は真っ白。
外に出ると、クラスメート達は泣いていた。
霊柩車を見送るときも、みんな泣いていた。
泣けなかったのは、私。悲しいはずなのに涙が出なかった。

中学校3年の夏にも、悲しい出来事があった。
私の家のすぐ前で交通事故があり、2階にいた私は、窓から外を見た。
もう、すでに救急車が来ていて、回りにはたくさんの人がいた。
あまり、野次馬的なことをするのが好きではなかった私だったが、その時だけは、外に出た。

壊れた自転車があった。
自転車には見覚えのある名前が・・・。 不安がよぎった。
母に、同級生かもしれないと伝えた。

警察の現場検証のとき、無線が入ったのを父が聞いた。
「1名は即死。もう1名は重症。」と。
クラスメート2人がその事故にあったと後で知った。

連絡網が入り、緊急の全校集会。
2度目の同級生の死。
その時も、棺に花を代表で手向けた。
去年の同級生の告別式のときと同じ。

頭の中が真っ白になった。
周りの女子のクラスメートは号泣。
でも、私は、やっぱりただ呆然としていた。
悲しいのに涙が出なかった。

同じ事故で助かった友達はもっと辛かったに違いない。
きっと、涙がかれるまで泣いていたと思う。
泣けない自分を冷たい人間だと思った。

高校1年の時にも、同じクラスメートが交通事故で亡くし、やっぱり、同じように告別式でも涙がでなかった。
ただ、悲しみを通り越した何かはっきりしない感情がまた残っていた。
3年続けて、同級生の 「死」 を目の当たりにし、
今、振り返って、高校のとき自殺を考えたが本気で死のうと思えなかったのは、
この3回の死に恐怖感をもったからだと思う。
きっと、亡くなった友達のご遺体を見て、怖かったんだと思う。

死んだらどうなるんだろう。
私が死んだら、どれだけの人が悲しんでくれるんだろう。
葬儀のとき、どれだけの人が集まってくれるんだろう。とか真剣に考えた。

考えれば考えるほど怖かった。
死にたくないのに死んでしまう子もいる。
なのに親の愛情を向けたくって、病気になりたいとか死にたいとか思った自分が、とても嫌いになった。

でも、やはり、両親に弟と同じように接して欲しかった。
イヤイヤお店の手伝いもやり続けたのは、弟には店の手伝いは課せられてなかったから。
忙しくって、よく怒られてたけど、その時だけは、私と両親がつながれた時間だったから。
店の手伝いをしている時だけは孤独を感じなくてもよかった時間だったのかもしれない。
両親が私だけを見てくれる時間だったから。

今思えば、同じ年代の友達に、人と接することが苦手で、人に合わせ、
人の顔色を伺いながら行動する私を、八方美人と思ったに違いない。
私はいじめにつながる原因を自分で作っていたのだ。

今のように、いじめがクローズアップされない時代だったので、
小学校のときも、中学校のときも、学校の先生はいじめに気づいてくれなかった。

中学校3年のとき、朝、学校に行き教室に入ると、椅子や机の横に紫のラッカーでいたずら書きをされていた。
自分で何か消せるようなものを持っていき、消そうとした。
だけどシンナーなんて持ってないし消すことはできなかった。

今も、その残骸が卒業アルバムに残っている。
卒業アルバムなんて今も見たくもない!

もう、そのときすでに、私はたくさんの自分を作って生きていたように思う。
本当の自分がわからない、
どうしたら、他の友達のように心を開いて話したり、上手に友達と付き合えるのか解らなかった。

小・中・高校時代、未だにつながれている友達は数少ない。
同窓会も、たぶん、私が中・高校は学級委員長をしていたから、
幹事的な立場なのかもしれないけど、つながりを持ってない私は、未だ同窓会と言うものを企画していない。
いいえ、出来ないと言う方が正確。
広く浅く、短い繋がりしか作れなかった人間関係。

家でも外でも、何事もないようなへっちゃらな顔をしていろんな仮面をかぶって、
いつの間にか自分というものがわからなくなっていた。
多重人格では?と思えるくらい。

大学生になると、少しうまく友達と付き合えるようになった。
理由は、今考えるととても簡単。
一日中、同じ教室、同じ時間割で動かなくてもよくなったから。
ずっと友達の視線や、どんな風に今思われてるのかに神経を集中しなくてもよくなったから。
人の感情に敏感になって振り回されずにすんだから。

こんな、私もいて、今の自分がいるのだと、整理して書き出してみると自分がほんのちょっと理解できた。
まだまだ今の自分も過去の自分も受け入れられない。
本当の自分を知りたい。
でも、どれが本当の私なのかわからない。

自分探しの答えは、今の私が、過去の私を受け入れ、好きになったときに分かるのかもしれない。
まだまだこれからも、私の孤独との共存は続くのだろう。
だけど、また書ける様な気持ちになったら、書いてみようと思う。 その時はまた読んでください。

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